人生、大凡80年とすると大雑把にいうと3分の1を親係、或いは独身で過ごし
次の3分の1で子育てをして、残りの3分の1を配偶者を含め自分のために熟年
叉は高齢者として過ごすのでありす。
そして、その各1年は、普通の勤労者の場合、3分の2を企業や組織のために
働いて、残りの3分の1を土日祝祭日、休暇として家族を含め自分のための日と
なるのであります。 更に1日単位で考えてみますと3分の1が睡眠,3分の1働きますので、自分
の自由に出来る時間は、通勤や拘束されどうにもならない時間を含めて残り3分
の1の8時間となります。
この計算では80年生きても、本当に自分が自分の為に使うことができる時間
は睡眠を除くと3年分位にしかならず、日本のサラリーマンの長時間労働、サー
ビス残業を考えると誰の為に生きているのか考えさせられます。
それだけ、自分が自由にできる時間を如何に過ごすかと言うことが誰にとって
も大切なわけですが、殆どの凡人は光陰矢の如し、後の祭で人生を終わってしま
うのではないでしょうか。
視点を変えて、人生を色と季節に例えると胎児期や幼・少年期を越え青年期か
ら「青春」,壮年期の「朱夏」,老年期の「白秋」「玄冬」となり、最後に囚年
期(あの世への準備の時期)を迎えます。
「青春」は今盛りの木々の葉の緑、「朱夏」は真っ赤に燃える太陽、「白秋」
は円熟の目映い純白、「玄冬」は厳かに光放つ高貴な黒というところでしょうか。
そして年齢としては、青年期が30才位まで老年期が65才位以降とすると、
その中間が壮年期で、一日の終わりの夜と同じだが、現世では永遠の眠りへの準
備期間である囚年期は比較的短いと思われます。
「四十而不惑」「五十而知天命」「六十而耳順」40にして惑わず自己を確立
し50にして天命を知り、安心してそれに身を委せ60にして天の声に従って生
きろということでしょうか。
<<参照; 「七十而従心所欲、不踰矩」>>も見てください。
又こんな言葉もあります「 ひょろひょろと、倅(セガレ)大人になりにけり うろうろ
三十きょろきょろ四十、 五十六十花なら蕾 七十八十働きざかり 九十になっ
て迎えがきたら 百まで待てと追い返せ 」
人生八十年、誰の為に生きていると考えるのは誤りで、自分一人で生きている
のでない。 天や自分以外の他のものの御陰で生かされているのだと感謝して、
あればあるように、無ければないように「足るを知り」 毎日、楽しく(楽しい
ことだけ考えて)生きるのが幸せの道であるようであります。
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